「日本に行って死ぬほど熱心にすれば叶うんだと悟った」
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日本の話をしたチャン・グンソクは、自身が日本に行くことになった話を切り出した。
「僕が日本に行くことになった理由を申し上げましょうか。提川(チェチョン)からソウルに上京してきて、お父さんはタクシーの運転手、お母さんは皿洗いをして、僕は下着のCMを撮ったけど中学校の時は相変らず家にお金がありませんでした。

理系や文系の高校進路を決めなければならない時期なのに、僕は中学3年間ずっと進路に“留学”と書きました。中学校の時、子どもたちが僕の下着のCMの写真でからかうのも嫌だったんです。お父さんやお母さんからお小遣いを貰って生きる子たちが、家のためにお金を稼ぐ僕をからかうから、凄く腹も立ちました。

とにかくお母さんがお金を貯めましたが、僕はそこにイギリスに行かせて欲しい、アメリカに行かせて欲しいと言いました。ところが家の事情に従わねばならなかったのでニュージーランドに行きました。ド田舎でした。韓国人の学生は学校に5人くらいいました。運動する時だけ一緒にして、精神的な交感はむしろ日本人の友人たちとたくさんしました。英語を習いに行ったけど、かえって日本語をたくさん覚えました。互いに文化的な交流をしながら僕は日本の文化を習ったのですが、木村拓哉という人が目につきました。昨日僕がみたビデオではドラマに出てきたのに、今日はバラエティに出てきます。そしてある日はMCとして登場して。それを見た瞬間、新しい文化的衝撃を受けました。

あの当時は韓国では俳優は演技だけ、歌手は歌だけしていました。あぁ、日本に行けば、あらゆる事が出来るんだな。10年以内に必ず日本で有名にならなければならないと決意しました。10年という目標を立てましたが、9年で東京ドームで公演をしました。感無量でした。」

チャン・グンソクの話は続いた。「人々は僕が1編のドラマで日本に行って一気に人気が出たと考えます。その通りです。ところが僕は日本に行く前にすでに多くの準備ができていました。僕は日本という国に20歳で初めて行きました。50万ウォンを持って。ところがその当時すでに会話が可能でした。初めて行った国ですよ。かえって向こうが驚きましたね。お、この子日本語ができるんだ、という風に。そうして日本に行ってみて悟りました。あぁ、こうやって決心したとおりになるんだな。死ぬほど熱心にすれば叶うんだ。

その時から英語を勉強しました。アメリカにも行くことができるんだと、自信を持てるほど英語の実力も積みました。ところがアメリカには行きませんでした。いっそアジアに集中しよう。アジアを思い浮かべた時、チャン・グンソクを思い出させよう。アジアの未来として見えるようにしようと戦略を立てました。」

チャン・グンソクは「今後10年は中で名誉回復をする時期になる」としながら「韓流スターをやめて階級章を外して、死ぬまで最善を尽くせる演技をするのが今後の目標」と語った。そして、チャン・グンソクはまた違う目標も話した。いわゆる“アジアのプリンスジュニア”プロジェクトだ。自身の経験を基に次世代の韓流スターを直接育てるということだ。

「今後10年の目標が7つくらいありますが、そのうちのひとつがアジアのプリンスジュニア探しです。俳優でも歌手でも自分が進みたい道を気楽に行けるよう道を作るつもりです。条件はありません。熱心に仕事をすれば良いです。僕が歩いてきた道を熱心についてきて、熱心に準備して勉強すれば良いです。歌手を作るなら僕が日本で作るコンサートのオープニングステージに立つ事もできるし、役者を作るなら僕と共に作品に出演できるでしょう。第2のチャン・グンソク、第3のチャン・グンソクを作ろうと思います。“アジアの未来”は今から開始です。」